こんにちは、ねねこです。
合戦での勝利や敗北、家臣や同盟からの裏切り、これが当たり前の日々の戦国時代はあなたはご存じですか?
戦国時代は生き抜くことがとても難しい時代でした。
そのなかで、戦国武将たちがいった名言。
内容はとても深みがあり、重みがあります。今回はわたしが特に気にいっている名言を紹介します。
現代でも通用する名言。
自分の人生、生き方に当てはめて考えてみると名言の良さが分かります。集めてみたので、自分に合うものがあるか見てください。
現代でも通用する名言 その① 織田信長
引用元 Wikipediaより
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。
尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけた。
家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、領土の拡大に邁進した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。
後には義昭を追放して、畿内を中心に強力な中央集権的政権を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。
しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃する
1人目は織田信長です。戦国時代の改革者。
1570年~1574年に長島一向一揆の制圧(現在の三重県、桑名町付近)では、日本で初めて大量虐殺をしました。
1571年には比叡山焼き討ちをして、僧侶、学僧、上人、児童の首を刎ねるように命じています。
このような悪行高いイメージが付いている信長ですが、現実は違いました。新しいビジョンを持ち、古き体制の室町幕府や戦国時代に改革の切込みを入れた人物です。
織田信長の名言
理想を持ち、信念に生きよ。理想や信念を見失った者は、戦う前から負けていると言えよう。そのような者は廃人と同じだ。
自分の生き方のイメージや理想、これを持って生きること。
それに向かって行動すること。理想を持っていないものは死んでいるとものだといってます。
わたしもそうですが、人は苦しいことや辛いことに当たるとその場から逃げたくなってしまいます。
逃げたときに負けが確定してしまうのです。
自分の理想通りの生き方を貫け。現代人の生き方や仕事にも当てはまりそうな名言ですね。
現代でも通用する名言 その② 石田三成
引用元 Wikipediaより
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。
豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。
豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。
2人目は石田三成です。豊臣家に徹底した忠誠を貫きました。
世間では、
関ヶ原の戦いの負け組」「石田三成のせいで豊臣家が滅んだ」
とかいわれてます。
しかし、実際は違います。豊臣家に最後の最後まで忠誠を貫いた忠義人です。
石田三成の陰の支えのおかげで、豊臣家があそこまで大きくなったとわたしは考えています。
戦に出ることより「豊臣家の台所役(財政運営、太閤検地)」として活躍しています。
石田三成がいたから、豊臣家は財政が麗しく天下統一も出来たといっても過言ではないでしょう。
石田三成の名言
大義を思うものは、首をはねられる瞬間まで一命を惜しむものだ
自分が覚悟、決意を決めたら最後まであきらめるな。
「こうなりたい」「あんな風に生きてみたい」このように決めたら、やれ!ってことですね。
「言うが易し、行うが難し」こんなことわざもあります。
どうしても「もうダメだろう」「成果が出ないから止めた」このような人はとても多いです。
石田三成の名言、誰にでも当てはまりそうなです。
現代でも通用する名言 その③ 前田慶次郎
引用元 Wikipediaより
前田 利益(まえだ とします)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。
小説や漫画の影響で、現在では前田慶次/慶次郎の通称で知られるが、宗兵衛、利益、利太、利大、利貞など複数の名前を用いており、道号でも、穀蔵院飄戸斎(こくぞういん ひょっとこさい)や穀蔵院忽之斎(こくぞういん ひょつとさい)、または龍砕軒不便斎(りゅうさいけん ふべんさい)と時期によって名乗りが異なる。
滝川一族の出身で、前田利家の義理の甥。子は一男五女をもうけた。兜は、南蛮笠式兜。
3人目は前田慶次郎です。傾奇者ともいわれ、この人物は謎が多いです。(ここでは、前田慶次郎と紹介します)
引用の文中にもあるように、名前も多数資料にあるためきちんと分かっていません。
存在自体も怪しまれる前田慶次郎。
織田信長の重臣滝川一益の一族ともいわれてますが、それも謎。
「大ふへんもの」の旗をかかげて戦に出たともいわれています。
本来なら「大武辺者」と書き「俺はこの軍の中でも1番強い」と旗をかかげるのですが、前田慶次郎は「大ふへんもの」と書いています。
これは、前田慶次郎のいたずらで「お金もなくて、奥さんもいなくて大変に不便だよ」って意味です。(大不便者)
ユーモアたっぷりな人物でした。
前田慶次郎の名言
これは簡単に分かりますね。好きなときに起きて、好きなときに寝る。
なんともうらやましい生活ですね。
でも、捉え方を変えるとこのようになります。
自分の生き方、あり方に不満があるなら変えればいい。余計なことを考えずに好きなことをやろう。
わたしはこのように名言を捉えてみました。あなたは、どのようにこの名言を捉えますか?
現代でも通用する名言 その④ 小早川隆景
引用元 Wikipediaより
小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。
毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。竹原小早川家を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。
毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、文禄4年(1595年)に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に五大老の一人に任じられた。
実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。特に豊臣秀吉の信頼は厚く、事実上毛利家の主導者であった。
4人目は小早川隆景です。「毛利両川」といわれ、次兄の吉川元春と毛利家を支えた人です。
父の毛利輝元が亡くなったあとは、1番兄の隆元が家督を継ぎます。
しかし、この隆元が急死のため自分の甥の輝元が跡を継ぎます。
幼い輝元を兄の吉川元春と小早川隆景で補佐したために「毛利両川」と呼ばれるようになりました。
(ちなみに次兄の元春は吉川家に。隆景は小早川家に養子に出ています)
晩年は、豊臣家の「五大老」にまで上り詰めました。「政治、知略、戦」と文武両道な人物です。
小早川隆景の名言
「このぐらいでいいか」「なんとかなるか」人はついつい自分に甘えを出してしまいます。
生き方がぬるいと何ひとつ成長しません。
不安でも新しいことや、難しいことにチャレンジしていくことで人は成長していきます。
あなたは、ぬるま湯から出る決意は出来そうですか?
何でもチャレンジする気持ちはいつまでも持っていたいものですね。
現代でも通用する名言 その⑤ 柳生宗矩
引用元 Wikipediaより
柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。
徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。
剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。
5人目は柳生宗矩です。柳生宗厳(石舟斎)の子どもで戦国時代に剣術家として活躍しています。(父も剣術家です)
初代、家康。2代目、秀忠。3代目、家光と長きにわたって徳川家に仕えていました。
家光には剣術を教え、後には大名にまで上り詰めました。
剣術家として、大名になったのはこの柳生宗矩ひとりだけです。
柳生宗矩の名言
小才は縁に逢って縁に気づかず、中才は縁に逢って縁を生かさず、大才は袖触れ合う他生の縁もこれを活かす
小才は縁に逢っても気づかない。中才は縁に逢っても生かせれない。大才は縁を大切にして自分のために生かすことができる。
人間にとって大事なものは、人との縁。それを生かすも殺すもその人次第。
現代人にとってありがたい名言ですね。
人とのコミュニケーションやつながりはとても大切です。
つながりをうまく生かせばいろんなチャンスが巡ってくるかもしれません。
それを気づかずに見過ごさないように気をつけたいものです。
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この名言集を見てあなたに合うものはありますか?
こちらの本に名言があります。
全部で100の名言が載っています。わたしが気になって紹介したものはたったの5つだけです。
あなたに合う名言を探してみてください。きっとあなたに合うものが見つかりますよ。
まとめ
戦国武将たちの名言はいかがだったでしょうか?
兄弟で家督争い、家臣の裏切りなどとても世知辛い時代だったでしょうね。
そんな時代の人間の名言は現代でも通用します。
名言が頭の中にあると、生き方も変わってきそうですね。あなたに合う名言はありそうですか?